このドキュメントは塾長が戦争中に疎開した先の
埼玉県北足立郡南畑村(現在の富士見市)での思い出を記憶のしっかりして居る内に..(^^;
日記形式に脚色なしで記述して見ようとおもいます。
戦争とは幼い子供にも鮮烈な記憶として焼き付けられてしまうものです。
昭和20年3月×日
疎開先は、村でも一番大きなお寺「金蔵院」でした
県道から奥まった所に黒い大きな山門があり、そこを通ると
正面に本堂があり、右手にお寺さんの住まいが、その前に
吹き揚げ井戸があり、一年中留めなく地下水が湧き出しています
夏は冷たく、顔ごと吹き出し口へもって行き呑んだあの水の旨かったこと
寺の本堂の左手の奥に大きな杉の木があり、本堂の濡れ縁を上がると
そこに六畳か八畳の部屋が二つあり、その一つが我が家の疎開先での
生活の場です。
山門には和室が一つあり、そこには顔中黒い髭で毛むくじゃらの小父さんが
棲んでいました、顔は怖いがとても優しい小父さんでした。
私たちは、その小父さんを"門屋の小父さん"と呼ぶようになりました。
昭和20年3月×日
この頃になると夜間はあらゆる照明を禁じられ
夜間米軍機が落とす"照明弾"の明るさはまるで昼のよう
住職がよく新聞を外に持ち出しては
"お〜っ 今夜は良く読めるわい"と云っていました。
昭和20年4月*日
南の空が真っ赤だ
何が起きているのか解らない...
東京(池袋)が空襲で燃えている..とは
あとで大人から知らされました。
昭和20年4月×日
県道から山門へ行くなだらかな小道の両側に雪柳が咲き誇っています
そして寺の北側の農道には一重の赤い椿の花がそっと落ちている。
戦争であることを忘れさせて呉れるように...
昭和20年6月*日
毎日じめじめとした雨である..
部屋の前3メートル位でそこはお墓です
ふと目を落とすと、目の前で何か燃えている
青白く、とても綺麗な感じだ...
それが人骨から出る燐であることは数日後住職に聴かされるまで
家人の誰も知らなかった
この頃でした、部屋の天井によく大きなムカデがへばり付いていて
ボタッ..と音をたて畳に落ちるのです...
昭和20年7月×日
近所の農家へ貰い風呂に行く
帰りの夜道は鼻を摘ままれても解らない闇夜です
山門までやっと辿り着くと、くぐり門の場所が見つかりません
父が手探りで入り口を捜すのですが、どうしてもわかりません
相当長い時間右へ行ったり左に行ったりしていました
やっと捜して部屋へ戻ると父の手のひらは真っ黒でした。
昭和20年7月×日
県道にでると角に駐在所があり、私はそこの駐在さんを
見たことは一度もありません
いつも西日が当たっていて、中には机と椅子がひとつ..
ガランとしています。
昭和20年7月×日
真夏の暑いお昼時でした
近くの国民学校へ行っている姉二人が
駆け足で戻ってきました
二人は私に 息を切らして"おかあさんは?"
私 "...わからない.."
二人は昼食に戻ったのですが母が居ないのを知ると
乾き切った濡れ縁に転がっていた生暖かい一本のお化け胡瓜を
縦割りにし塩をつけ、囓りながら足早に学校へ戻って行きました。
そんな自分は毎日、生あくびばかりしていたのを覚えています。
昭和20年7月×日
毎日暑い日が続きます
ある日、叔父が(当時17才)がやって来て
寺の裏を流れている新河岸川で村の子供達が水泳を
やっているから見に行こうと誘ってくれました。
川に行ってみると、子供達は赤ふんどしで橋の欄干から
次々と高飛び込みをして、はしゃいでいました。
叔父は私を背負って、川へ入り泳いで呉れました
とても冷たい水でした。
生まれて初めての川遊びでした。
昭和20年×月×日
寺の北側の畑で村人が騒いでいます
私も行ってみました
畑の真ん中あたりに大きな穴があいています
米軍機(B29)が落とした爆弾が不発弾として
村の畑にめり込んだのです
村人が大声で "近寄るなっ" と叫んでいました。
※あとがき:気が付いたら「自分史」が始まっている※
Return